僕の日々

公務員から農業への転職を機に始めたブログ。自分のことをだらだらと綴っています。

今この時

      f:id:karasinegi:20180328164031j:plain

 机の上がスッキリとしていない。僕の机は、姉から譲り受けたダイニングテーブル。子どもが一人寝転がることができるほど大きく、シンプルなテーブルだ。その上には、スケッチブックと筆箱が乗っている。ぱっと見ると充分にスッキリしているように見えるが、どうもそう心で感じることができない。それは、今絵を描いていないからだ。
 描ければいいなと思いながら、机の上に常に2つのアイテムが常備されている。朝少し早く起きて空いた10分間も、家に帰ってからぼーっと放心している20分間も、今この時も使われていない。一週間以上、静かに僕を待っている。「早く私を使ってよ。」という声に、僕の良心は突っつかれている。痛い痛い。 
 思い起こせば思い起こすほど、自分は一生懸命だなと思う。それは、熱い向上心をもってパワフルに自己研磨に勤しむ血気盛んなビジネスマンとは違う。湿った部屋の隅っこでうじうじしているナメクジのように、陰鬱と自分を責めることに関してだ。
 やれば意義があると思っていながら、何かと理由を付けて(理由が無くほうけている場合もあるが)取りかかることをしない。自分で怠けることを決めたはずなのに、後になって、どうしてしなかったのだろう、とナメクジが自分に塩を振りまいているように、自分は愚かな男だと言って責めるのだ。
 書けば書くほど面白い。僕はこれほど自分を客観視できている。今の僕は冷静な男だ。クールである。これがヒュージャックマンなら、世の女性を虜にするだろう。残念ながら、僕の顔面は縄文人のそれに酷似している。それはさておき、僕は、絵を描くことが自分にとって大切である、と思っている。それなのに我が愛しきテーブルちゃんを悲しませるのはどうしてだろうか。
 肉体的疲労だろうか。疲労物質が筋肉にたまり、立ち上がることさえ困難で、兎に角体を動かすなと無意識に感じ取っているのだろうか。その可能性はなきにしもあらず。しかし、さっきトイレに悠々と行ってきたし、モフモフした猫が現れたら飛びつくことも容易にできそうだ。肉体の疲労は、フルマラソンを走った後のように、全体力を使い果たした状態でない限りあまり関係がなさそうである。
 では、精神的疲労だろうか。上司と部下の板挟みでぺちゃんこになったり、苦手で面倒な膨大な資料作成に悪戦苦闘したりしているときは、確かに、心に余裕はみじんも残っていない。廃人のように、公園のブランコに小一時間揺られていたこともある。時間の感覚はなく、自分の存在すらあやふやになる。悲しみの念しか湧いてこない。だが、これは極端な時期の話だ。今現在や日々の精神状況とは異なる。たとえ疲れたときも、ホラー映画を立て続けに観たり、エッチなものを見て興奮することもある。そんなときは、僕も好きだな、としみじみする。どうやら、精神的疲れでもない。絵を描くべきときは、帰宅後。その疲れからは、少しは離れている状態だ。
 ううむ、では何なのだろう。どうして僕は、絵を描くことにこだわり、できないことを嘆くのだろうか。
 絵を描くことは、ドライな言い方をすれば、無意味である。生活に必要とは言えない。特に僕は絵とは全く関係のない仕事をしている。お金にもならない。誰かが喜ぶこともない。正直言ってへたっぴな絵である。漫画のようなかわいい絵を勇んで描いても、あれよあれよとバランスは崩れ、何というか滑稽な印象を与えるレベルに仕上がる。頑張ったんだろうなという感想は与えても、いい絵だと誉められることはないだろう。金にもならず、人に誉められもしない。それに加えて、生命を保つ上でも無用。こうやって書いてみるとひどいこけおろしようだ。現実は非情である。
 それでも僕は描けるようになりたいと思っている。これは、一種の執着だ。かっこいい絵も壮大な絵もエッチな絵も、自分で描きたい。悦に入りたい。理想の絵を描きたい。その思いが、衛生のように頭の周りをぐるぐる回っている。
 ああ、なるほど。これが原因だ。僕は理想という先ばかり見ている。50mとかそういうレベルではない。日本から火星の探査機を見るように、遙か彼方を、もてる限りの想像力を膨らませて。
 理想はたどり着くことができないものだ。それは完璧で、人間の寿命では到着するまでに時間が足りない。果てしない宇宙のように遠く広い。僕が絵を描きたいと思うとき、果てしない先にあるであろう、到着点を見ている。
 そこに行くために絵を描くが、描いているものを見ると、どうだろう。これはひどい。理想とはかけ離れてたものがスケッチブックに描かれている。それを見て、僕は落胆する。「どうして理想通りに描けないのだ。何年も描いているのに。それに、勉強だってしているぞ!」だが、冷静に考えてみろ、実際は違うじゃないか。何年も描いているが、その「何年」は、生活に使ってただ過ぎた時間のことだ。絵に費やした時間は、多く見積もっても平均して一日に5分程度。1ヶ月で3時間も使ってない。ロードオブザリングをみる時間があったらその時間を使ったらどうだ。勉強だって?10ページ読んで、本のように描いた気になって、本棚にしまい込んだだけだろう。読破したり、全て写し取ったりした本は一冊もないぞ。冊数は10を超しているにも関わらずだ。これが、読んで勉強したと言えるのか?なんと、さっきのセリフで、合っているのは理想通りに描けないことだけだ。
 遙か彼方の理想を見ていながら、僕は現実とそれまでの行いすら冷静に見えていない。こうしてクールなヒュージャックマン状態で見返すと、時間にしても勉強の労力にしても、理想に近づくために必要なだけ、全くもって使っていない。さっきのセリフは、一種の狂人の叫びに似ている。
 僕ができないことに嘆き、自分を哀れむのは、簡単に言えば理想と現実のギャップを落ち着いて見、分析し対処できていなかったからだ。(「簡単に言う」と、「なんだ、そんな世間一般で言われていることか」と拍子抜けしてしまうが、これは実感を伴っているので、僕自身にとってはかなり重みが違う、と感じている。)
 改善するためには、自分の至らなさを顧みた上で、それだけの労力を僕は改めて費やす必要がある。人生でどこまで理想に近づくことができるかわからない。しかし、僕は近づきたいのだ。では、行動するしかない。少しずつ近づいていくしか、僕の人生を納得させられない。今の自分(一日5分の努力?によるこの画力)が、過去に積み上げられたものからできているように、今積み上げないことには、未来を作ることはできない。テーブルちゃんの嘆きが良心を突っつくなんて、家具と過去の自分に責任転嫁をしているにすぎない。嘆いているのは今の自分だし、嘆きの原因を作っているのも今の自分だ。
 理想はゴールとして必要だが、それは果てしなく、ただ目指すべき場所だ。理想はただ頭の隅っこに認識するだけでよい。見るべきは今という時。疲労はある程度の考慮でいい。何をし、血肉にし、理想へ向けて一歩足を前に出すかという今が全てなのだ。

 テーブルの上から受ける自分の心のありようについて書いていたが、思った以上の文量になってしまった。クールになると、これほどまでに掘り下げることができるのかと驚いている(地下50センチ程度かもしれないが)。
 今のこの考えは、果たして年月を経たとき、どう変化しているかは謎だ。もしかすると、全く別のものになっているかもしれない。だが、それはそれでよい。そのときの今だからだ。自分を保って、今に生きる。その痕跡を今後も残せるとよい。
 この記事の原稿を書き終えた暁には、行動を起こす。勉強の一環として、自分を分析するきっかけとなったテーブルちゃんの絵を描こう。