僕の日々

公務員から農業への転職を機に始めたブログ。自分のことをだらだらと綴っています。

早朝のポメラ

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 現在、朝の5時48分。日の出から10分弱たち、小鳥のさえずりが徐々に明るくなる景色と共に活動的になってきている。コーヒーはまだ熱く、ゴクリと飲むと舌を火傷してしまいそうだ。そんな状況で、僕はシャツを着ていつものチノパンをはき、お気に入りのムーンスツールに腰掛けながら、ポメラに向かってブログの原稿を書いている。身支度を整えた後に吸った煙草に頭を軽く揺すぶられ、意識が少しずつはっきりとしてきた。眠たいか、と問われれば、6割ぐらいの眠たさで、また、花粉症のせいもあり、目も砂が入った時のような不快さがある。もう一度布団に入り込めば、そのまま出発時間ぎりぎりまで容易に捕らわれてしまうだろう。

 そうではあるが、徐々に気分が高揚してきている。それは、自分で立てた目標にまた一歩近づいたからだ。起床時間は、いつもよいも2時間近く早い。服装はジャージではない。コーヒーを飲んでいる。机に向かい原稿を書いている。おそらく、ブログを更新した後には絵の勉強をする。

 大きな進歩である。後に控える仕事のことは頭にない。ただ、早く起き、自分の為の時間を作り、自分のしたいことに進むことだけ考えることができた。まだ、継続してはいないが、これまでの数年、一度もできなかったことである。 

 できなかったことは改善策を考え、できたことは素直に喜ぶ。時々、止まってみてもよいが、基本的に前に進み続ける。うじうじ考え続けた10年間から得られたものは、それが間違いであったという確信だけだったからだ。人生をやっと生き始めたように感じる。

 

 起床時間:5時18分

 素晴らしい。日の出前に起きることができたのである。拍手喝采!

 

 体重:64キロ

 ??増えているとは何事か!肉体労働で消費した以上に摂取していてはプラスになるに決まっているぞ。でも、体が刺激されて、食べたくなるのだ。よくかんで食べよう。

 

 

朝とポロシャツとコーヒー

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 目標にはまだ遠いものの、昨日よりも早起きをすることができた。6時5分である。出勤までに1時間も空いた。洗顔、身支度、朝食、ゴミ出しを終え、今コーヒーを傍らに置いて、ブログをカチカチと書いている。外は薄曇りで、まっすぐに日光を浴びることはできないが、朝特有の爽やかな空気を感じている。うむ、悪くない。昨日の策略は成功である。自分にしてやったり、というよい気分である。

 ところがここで問題が一つ出現した。それは服装が残念なのである。今来ているものは、ヨレヨレのポロシャツとジャージである。仕事着なので、これをとりあえず着ているのである。

 着心地が悪いわけではない。肌触りはソフトで気持ちよく、ストレッチ素材のため、今すぐにでも運動を始めることができるほど機能的だ。しかし、見栄えが気持ちよくない。僕が抱く、大人というイメージは、清潔で品のあるシャツ、シワのないチノパン(のようなスマートなズボン)爽やかな朝日に照らされながら、微笑みながらコーヒーすする。その顔には余裕と幸せが満ちている。それが、理想の自分像である。しかし、今の自分はどうだろうか。よれたポロシャツ、紺のジャージ、とりあえず着ましたよとさも言わんばかり。外は薄曇りで太陽の光は鈍い。コーヒーカップには前に飲んだ青汁の粉がうっすらとあり、カビのようにも見える。2分おきにぶーぶーと鼻をかみ、ティシュを撒き散らしている。これでは、連勤明けの休日に、だらだらネットサーフィンをする、未婚の中年男性である。

 これではせっかくの早起きも、がっかりである。気持ちよく文章を綴ることなどできず、おもしろ画像を探すことに従事してしまいそうである。自分がなりたいものではないぞ。

 では、どうするか。今考えうるのは、仕事に行く前はお気に入りの服で過ごす、という方法である。着替えが一回多くなるので手間ではあるが、残念な中年男性になるよりはよいだろう。気持ち良い朝のひとときを迎えたいのだ。さらに、もっと早く起きる必要がある。お気に入りの服になっても、10分でまた着替えて出勤では、馬鹿らしいからである。

 僕は、昨日よりも一歩前進した。一日ではあるが、新しいことをしたのだ。これはよいことである。停滞は退化と、前職の上司が行っていたように。僕は、自分の生活を進化させるのである。

 

 起床時間:6時5分

 明日はもう少し早く起きることができたら、褒めてやろう。

 

 体重:63.4キロ

 全然変わらない、睡眠をとるだけで痩せればいいな、と思うが、それでは風邪をひいた時には餓死してしまう。

 

 

 

早起きのために人参を吊るす

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 ブログの記事を書く時間が、帰宅後ということで、なかなか文章がはかどらない。(自分の文才が乏しいということはさておいて)どうも、夕方以降は脳の働きが弱まっているような気がする。疲労が薄い膜となって脳みそを覆っているような、不明瞭な感覚。休日の朝のような、すっきり爽快なはかどりは見られない。時間もかかってしまう。

 これを改善するにはどうするか。朝に書くのである。そして、それをするには、早く起きるのだ。幸いにも、今の楽しみはブログをだらだらと書くことである。自分のありようを綴ることを楽しみにして、朝起きる原動力を得るのである。成功すればこれは素晴らしいことだ。早起きもできて、ブログも更新できる。ついでにコーヒーなんか飲んだりして、優雅な文化人を気取ったりも出来るのである。馬の目の前に人参を吊るすように、理想を吊るすのである。

 そうなればいいな、ではない。そうなろうと行動するのである。

 

起床時間:6時57分

 ううむ、ギリギリである。肉体の疲労から、体が睡眠を求めていたようだ。もっと早く眠る必要がある。だが、とりあえず、7時前ということでセーフである。明日はもっと早く起きるのだぞ。

 

体重:63.4キロ

 なんと、増えているではないか!これはなんたることか!ああ、おやつに出されたロールケーキの後遺症であろうか。いや、単純に昼ごはんを食べ過ぎたのである。意志が薄弱である。

ベルトの穴とダイエット

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 ベルトの穴を増やして早1年。ダイエットを試みたい心持ちだ。
 1年前はよかった。58キロであった。素晴らしき適正体重。ちなみに僕の身長は、日本人にしては少し控えめの165センチである。奥ゆかしい背丈をしている28歳だ。

 58キロ時代はすらりとしていた。服を着ても胸から下はストンとしていて、顎の輪郭もシャープ。その面もちは知性さえ感じさせた。
 それが今はどうだ。服を着れば、胸の下には腹の膨張による膨らみ、ちょっと下を向けば二重顎、その面もちからは知性が消え失せ、堕落という言葉が似合っている。副作用はそれだけではない。冒頭のベルト。穴の数は増えた。衣服は苦しいと嘆いている。新しい服はMを買えばいいのかLを買えばいいのか、試着してもどっちつかず。走れば疲れ、座れば肉がはみ出す。

 残念な容姿は挙げればきりがないのだが。もっとも残念なのは、「まぁ、また痩せればいいさ。」と1年言い続けていた痩せた考えである。その今を軽視した思考回路がよろしくない。未来の自分に任せるなど、愚の骨頂である。それは、現在、過去から見れば未来の今、痩せていないからである。未来の自分なんてあてにならないという証拠が、このあり余った肉達である。

 今に生きる。僕の意識は今にとどめるのである。食べたいと思っても、それが今必要なのか、不要なのか判断するのである。特に炭水化物は要注意だ。僕のダイエットスタンスは炭水化物をカットするものだからだ。その場の雰囲気に流されてはいけない。自分を保つのである。

 

 起床時間:6時50分


 これは許せる範囲である。だが、深夜まで電話をエンジョイしていた隣人は許さない!おかげで少し寝不足である。

 

 体重:63キロ

 

 残り5キロ。僕らの旅はまだ始まったばかり! 

 

春の小鳥

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 友人にウグイスの絵を描いてみてほしいと頼まれ、想像で描いては不誠実だと親切心を湧かせ、画像を検索してみた。

 だが、ここで思わぬ事が起こる。なんと、表示される画像がことごとくウグイスではないのである。地味で、野生のただの小鳥だな、というものばかり表示されるのだ。これは一体どういうことか。腕で目を擦って見直しても、画面は地味な鳥で埋め尽くされている。ううむ、これはGoogleの怠慢だろうか?そう訝しんでみたが、それでは事が進まない。とりあえず、真偽を確かめるべく、画像のリンクを踏み踏みしてみた。

 するとどうだろう。一つの事実が浮かび上がってきた。なんと、あの地味な鳥がウグイスであったのだ。そして、ウグイスだと、僕が28年間想い続けていた鳥は、メジロだというのだ。これは、俄かには信じ難い情報である。そんなばかな!という状態である。戸惑いを隠しきれない。映画であったら、コーヒーを持つ手が震える、かなりシリアスなワンシーンであった。

 何とも愚かで無知である。桜並木を歩きながら、ウグイスのさえずりが聞こえるねぇ、春が来たんだねぇ、と季節の移ろいをしみじみと、一端の大人のように感じている最中、僕の頭の中に浮かんでいるその鳥は、メジロだったのだ。何とも滑稽である。

 何故僕がこの2羽の小鳥を取り違えていたのか。それは、メジロの見た目のせいである。あれは、どう見てもウグイスである。色も綺麗なウグイス色、梅や桜の枝にとまっている姿は何とも風情があり、さながら絵である。その姿が見えているときに、あのウグイスの可愛らしい独特の鳴き声が聞こえたら、あれがウグイスだと誤認するのも仕方ないのではあるまいか。うむ、これは、なるべくしてなったものであろう。自分を弁護してもよい案件である。

 まぁ、自分の無知具合を取り繕ってもしょうがない。薄々は気づいていたが、僕は何となくで生きているようだ。それっぽいことを勝手に頭の中でつなぎ合わせて、真実を知った気になっていたということだ。面倒だから、それにたぶん合っているだろう、という怠慢さ。とりあえず調べてみよう、という好奇心と行動力が希薄な状態。そのまま28年間を過ごしていたのだ。今回のウグイス事件は、それがただ露呈したにすぎない。氷山の一角である。

 何でもかんでも裏を取ればいいというわけではないと思うが、自分の知識や考えを見直す真摯で謙虚な態度が必要である。自分が見る世界を変にねじ曲がった眼鏡で見ては楽しくない。クリアで美しい光景を見、僕の世界をよりよいものにしていこう。

 

 

 

 

 

起床時間:6時

 一日目にして素晴らしいスタートである。早起きによって作られた時間でコーヒーを飲み、絵まで勉強した。さあ、明日はどうなるだろうか。

 

 

布団からの脱却

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 起床する時間が遅い。起きて仕事の準備をしたら、ちょうど出発時間である。

 過去に、早起きをしていた時期があったが、その習慣は冬の訪れとともに消え去っていった。寒さには勝てなかったのである。布団のぬくぬくとした誘惑。昼間活動しているときはへとも思わないが、目覚めの瞬間では何とも甘美で抗いがたかった。あれほど幸せを感じる時はない。まるで麻薬である。そして、麻薬というだけあって、副作用も大きい。自分の余裕が蝕まれるのである。ヒゲを剃る時間、朝ごはんを食べる時間(といっても、僕は青汁を飲むだけだが)、ゴミ出しをする時間等々、それら全てに制限が設けられてしまう。結果、のんびりとした心持ちにはなれず、余裕という概念が、朝、僕の中で消滅する。もちろん仕事にも行きたくなくなる。

 ダーマ神殿で転職をした今、そんな気分で新たな職場へ通うのはゴメンだ。桜も咲き、小鳥が歌う季節にもなった。日本は、布団が猛威を振るう魔の冬から脱したのである。ここで一発、早起きを自分のものにしてしまおう、というわけである。僕は布団からの脱却を目指す。

 目標は朝の5時起き。普段の就寝時間が夜の10時なので、睡眠時間は7時間と申し分ない。これまでが長すぎたのである。7時起き、つまり、9時間。いくらなんでも長い。しかし、当時の精神的疲労を回復させるには必要な時間だったのかもしれない。これだけ寝ても、仕事には、布団の麻薬を抜いても行きたくなかった。懐かしく、切ない思い出である。

 いきなり、5時でいけるだろうか?第一歩のハードルが高すぎはしないだろうか?

 では、こうしよう。7時までに起きられたら良しとするのだ。もちろん5時でもよい。その場合はスタンディングオベーションもの。僕はスターになれる。

 大切なのは、続けることだろう。何事も習慣づけるといつまでも苦にならなくなる、とよく本にも書いてある。今まで、読むだけで行動しなかったが、これもブログを始めたついでである。行動してみよう。

 自分で忘れないために、ブログ記事に起床時間を書いておこう。ちなみに、今日の起床時間は7時である。はてさて、どうなるだろうか。

 

今この時

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 机の上がスッキリとしていない。僕の机は、姉から譲り受けたダイニングテーブル。子どもが一人寝転がることができるほど大きく、シンプルなテーブルだ。その上には、スケッチブックと筆箱が乗っている。ぱっと見ると充分にスッキリしているように見えるが、どうもそう心で感じることができない。それは、今絵を描いていないからだ。
 描ければいいなと思いながら、机の上に常に2つのアイテムが常備されている。朝少し早く起きて空いた10分間も、家に帰ってからぼーっと放心している20分間も、今この時も使われていない。一週間以上、静かに僕を待っている。「早く私を使ってよ。」という声に、僕の良心は突っつかれている。痛い痛い。 
 思い起こせば思い起こすほど、自分は一生懸命だなと思う。それは、熱い向上心をもってパワフルに自己研磨に勤しむ血気盛んなビジネスマンとは違う。湿った部屋の隅っこでうじうじしているナメクジのように、陰鬱と自分を責めることに関してだ。
 やれば意義があると思っていながら、何かと理由を付けて(理由が無くほうけている場合もあるが)取りかかることをしない。自分で怠けることを決めたはずなのに、後になって、どうしてしなかったのだろう、とナメクジが自分に塩を振りまいているように、自分は愚かな男だと言って責めるのだ。
 書けば書くほど面白い。僕はこれほど自分を客観視できている。今の僕は冷静な男だ。クールである。これがヒュージャックマンなら、世の女性を虜にするだろう。残念ながら、僕の顔面は縄文人のそれに酷似している。それはさておき、僕は、絵を描くことが自分にとって大切である、と思っている。それなのに我が愛しきテーブルちゃんを悲しませるのはどうしてだろうか。
 肉体的疲労だろうか。疲労物質が筋肉にたまり、立ち上がることさえ困難で、兎に角体を動かすなと無意識に感じ取っているのだろうか。その可能性はなきにしもあらず。しかし、さっきトイレに悠々と行ってきたし、モフモフした猫が現れたら飛びつくことも容易にできそうだ。肉体の疲労は、フルマラソンを走った後のように、全体力を使い果たした状態でない限りあまり関係がなさそうである。
 では、精神的疲労だろうか。上司と部下の板挟みでぺちゃんこになったり、苦手で面倒な膨大な資料作成に悪戦苦闘したりしているときは、確かに、心に余裕はみじんも残っていない。廃人のように、公園のブランコに小一時間揺られていたこともある。時間の感覚はなく、自分の存在すらあやふやになる。悲しみの念しか湧いてこない。だが、これは極端な時期の話だ。今現在や日々の精神状況とは異なる。たとえ疲れたときも、ホラー映画を立て続けに観たり、エッチなものを見て興奮することもある。そんなときは、僕も好きだな、としみじみする。どうやら、精神的疲れでもない。絵を描くべきときは、帰宅後。その疲れからは、少しは離れている状態だ。
 ううむ、では何なのだろう。どうして僕は、絵を描くことにこだわり、できないことを嘆くのだろうか。
 絵を描くことは、ドライな言い方をすれば、無意味である。生活に必要とは言えない。特に僕は絵とは全く関係のない仕事をしている。お金にもならない。誰かが喜ぶこともない。正直言ってへたっぴな絵である。漫画のようなかわいい絵を勇んで描いても、あれよあれよとバランスは崩れ、何というか滑稽な印象を与えるレベルに仕上がる。頑張ったんだろうなという感想は与えても、いい絵だと誉められることはないだろう。金にもならず、人に誉められもしない。それに加えて、生命を保つ上でも無用。こうやって書いてみるとひどいこけおろしようだ。現実は非情である。
 それでも僕は描けるようになりたいと思っている。これは、一種の執着だ。かっこいい絵も壮大な絵もエッチな絵も、自分で描きたい。悦に入りたい。理想の絵を描きたい。その思いが、衛生のように頭の周りをぐるぐる回っている。
 ああ、なるほど。これが原因だ。僕は理想という先ばかり見ている。50mとかそういうレベルではない。日本から火星の探査機を見るように、遙か彼方を、もてる限りの想像力を膨らませて。
 理想はたどり着くことができないものだ。それは完璧で、人間の寿命では到着するまでに時間が足りない。果てしない宇宙のように遠く広い。僕が絵を描きたいと思うとき、果てしない先にあるであろう、到着点を見ている。
 そこに行くために絵を描くが、描いているものを見ると、どうだろう。これはひどい。理想とはかけ離れてたものがスケッチブックに描かれている。それを見て、僕は落胆する。「どうして理想通りに描けないのだ。何年も描いているのに。それに、勉強だってしているぞ!」だが、冷静に考えてみろ、実際は違うじゃないか。何年も描いているが、その「何年」は、生活に使ってただ過ぎた時間のことだ。絵に費やした時間は、多く見積もっても平均して一日に5分程度。1ヶ月で3時間も使ってない。ロードオブザリングをみる時間があったらその時間を使ったらどうだ。勉強だって?10ページ読んで、本のように描いた気になって、本棚にしまい込んだだけだろう。読破したり、全て写し取ったりした本は一冊もないぞ。冊数は10を超しているにも関わらずだ。これが、読んで勉強したと言えるのか?なんと、さっきのセリフで、合っているのは理想通りに描けないことだけだ。
 遙か彼方の理想を見ていながら、僕は現実とそれまでの行いすら冷静に見えていない。こうしてクールなヒュージャックマン状態で見返すと、時間にしても勉強の労力にしても、理想に近づくために必要なだけ、全くもって使っていない。さっきのセリフは、一種の狂人の叫びに似ている。
 僕ができないことに嘆き、自分を哀れむのは、簡単に言えば理想と現実のギャップを落ち着いて見、分析し対処できていなかったからだ。(「簡単に言う」と、「なんだ、そんな世間一般で言われていることか」と拍子抜けしてしまうが、これは実感を伴っているので、僕自身にとってはかなり重みが違う、と感じている。)
 改善するためには、自分の至らなさを顧みた上で、それだけの労力を僕は改めて費やす必要がある。人生でどこまで理想に近づくことができるかわからない。しかし、僕は近づきたいのだ。では、行動するしかない。少しずつ近づいていくしか、僕の人生を納得させられない。今の自分(一日5分の努力?によるこの画力)が、過去に積み上げられたものからできているように、今積み上げないことには、未来を作ることはできない。テーブルちゃんの嘆きが良心を突っつくなんて、家具と過去の自分に責任転嫁をしているにすぎない。嘆いているのは今の自分だし、嘆きの原因を作っているのも今の自分だ。
 理想はゴールとして必要だが、それは果てしなく、ただ目指すべき場所だ。理想はただ頭の隅っこに認識するだけでよい。見るべきは今という時。疲労はある程度の考慮でいい。何をし、血肉にし、理想へ向けて一歩足を前に出すかという今が全てなのだ。

 テーブルの上から受ける自分の心のありようについて書いていたが、思った以上の文量になってしまった。クールになると、これほどまでに掘り下げることができるのかと驚いている(地下50センチ程度かもしれないが)。
 今のこの考えは、果たして年月を経たとき、どう変化しているかは謎だ。もしかすると、全く別のものになっているかもしれない。だが、それはそれでよい。そのときの今だからだ。自分を保って、今に生きる。その痕跡を今後も残せるとよい。
 この記事の原稿を書き終えた暁には、行動を起こす。勉強の一環として、自分を分析するきっかけとなったテーブルちゃんの絵を描こう。